LOGIN飲み会の翌朝。
目が覚めた時、悠斗はもう起きていた。 キッチンからコーヒーの香りがする。 私はベッドの上でぼんやり天井を見つめた。 昨夜のことを思い出す。 秋山。 職場の悠斗。 知らない会話。 知らない表情。 知らない時間。 どれも特別なことじゃない。 浮気現場を見たわけでもない。 怪しいやり取りを見たわけでもない。 それなのに胸の奥が重い。 「起きた?」 悠斗が部屋を覗く。 「うん」朝倉さんと並んで、『余白の席』の前に立った。 前よりも、その沈黙に慣れてきた気がする。 無理に話さなくてもいい。 沈黙が、気まずさではなく、同じものを見ている時間になる。 それが少し不思議で、心地よかった。「展示が終わったら、この写真はどうなるんですか」 私が聞くと、朝倉さんは少し考えた。「一部は作家さんの工房に飾っていただく予定です。あとは、僕の手元に戻ります」「そうなんですね」「写真は、展示が終わると少し静かになります」「静かに?」「はい。壁から外して、箱に入れて、次に出るまで待つので」 その言い方が朝倉さんらしくて、私は少し笑った。「写真も待つんですね」「待ちます」「本みたいですね」「そうかもしれません」 朝倉さんも少し笑う。 写真が箱の中で次を待つ。 器が誰かの家で使われる。 本が読まれる時間を待つ。 そう考えると、物にもそれぞれの居場所と時間があるように思えた。「作家さんの工房って、この近くなんですか?」「電車で少し行ったところです」「工房でも展示があるんですか」「時々、小さな販売会をされています。今回の写真も、その時に何枚か置いていただく予定です」「販売会」 その言葉に、少し心が動いた。 器。 工房。 写真。 今回の展示とは違う場所。 けれど、少しだけ続きのように思える。 朝倉さんは、私の反応に気づいたのか、控えめに言った。「もし興味があれば、書店に案内が出ると思います」「行ってみたいです」 思ったより自然に言えた。 朝倉さんは少しだけ驚いた顔をして、それから嬉しそうに頷いた。「作家さんも喜ぶと思います」「でも、工房って少し緊張します
展示の最終日が近づいていた。 書店の掲示板に貼られたチラシには、いつの間にか小さな紙が重ねられている。『今週末まで』 その文字を見た時、私は少しだけ足を止めた。 終わる。 当たり前のことだった。 展示はずっと続くものではない。 写真も器も、あの白い壁に置かれている時間には限りがある。 それでも、少し寂しかった。 前の写真展も終わった。 そのあとも、私の生活の中には『帰り道の灯り』が残った。 今回の展示もきっと同じだ。 終わっても、器は私の部屋にある。 青みのある深皿は、もう食器棚の白い器の隣が定位置になり始めている。 かぼちゃを入れた。 ヨーグルトを入れた。 少し濃くなった茄子の味噌炒めも入れた。 展示は終わるけれど、そこから連れて帰ったものは、私の普通の日の中に残っていく。 そう思っても、やっぱり少しだけ名残惜しい。 私は掲示板の前で、しばらくチラシを見ていた。◇◇◇◇ 昼休みに、その話を佐伯さんにすると、佐伯さんはあっさり言った。「じゃあ、最後にもう一回行けば?」「行ってもいいんでしょうか」「なんで駄目なの」「何回も行きすぎかなって」「展示って、何回行ってもいいでしょ」 言われてみれば、その通りだった。 でも私はまだ、どこかで考えてしまう。 何度も行ったら、朝倉さんに会いたいだけだと思われるのではないか。 そういう気持ちがないわけではないから、余計に足が止まる。 私が黙っていると、佐伯さんはアイスコーヒーを混ぜながら言った。「会いたいだけだったら駄目なの?」 私は少し驚いて顔を上げた。「え」「もちろん、相手に押しかけたり負担をかけたりするのは違うよ。でも、会えたら嬉しい人がいるから、その場所へ行きたいって
翌日の昼休み、私は森下さんと休憩スペースで一緒になった。 自動販売機の前で森下さんがミルクティーを買い、私は温かい紅茶を選ぶ。「藤崎さん、昨日展示行きました?」 森下さんが何気なく聞いた。「行かなかった」「そうなんですね」「夕飯を作りたくて」 そう答えると、森下さんが少し目を丸くした。「夕飯を作りたくて展示に行かなかったんですか」「うん」「なんか、すごくいいです」「いいの?」「はい。藤崎さんの生活が、展示に勝った日ですね」 思わず笑ってしまった。「勝ち負けなの?」「気分的に」「昨日は茄子を買ったの」「茄子」「悠斗があまり好きじゃなかったから、前はあんまり買わなくて」 名前を出してから、少しだけ胸が痛んだ。 でも、言葉は止まらなかった。「でも昨日は、自分が食べたいなと思って買った」 森下さんは黙って聞いてくれていた。「味噌炒めにしたら少し焦げたけど、おいしかった」「それ、めちゃくちゃいい話です」「茄子が?」「茄子が、というより」 森下さんはミルクティーの缶を両手で持った。「藤崎さんが、自分の食べたいものをちゃんと優先したところが」 胸の奥が、静かに温かくなる。「写真、撮ったんですか?」「撮らなかった」「珍しいですね。最近、器とか花瓶とか撮ってたのに」「うん。誰かに見せる前に、自分で食べたかった」 言ってから、少し照れた。 森下さんは、ふわっと笑った。「それも、すごくいいです」「そう?」「はい。報告するための生活じゃなくて、藤崎さんが生きてる生活って感じがします」 その言葉に、私はしばらく返せなかった。 報告するための生活じゃない。
翌日、私は仕事帰りにスーパーへ寄った。 書店の前を通る道もあったけれど、今日はまっすぐ食材売り場へ向かった。 朝から少し決めていた。 今日は展示に行くかどうかより、まず夕飯をちゃんと作りたい。 誰かに見せるためではなく。 話すためでもなく。 私が食べるための夕飯を。 野菜売り場で、茄子が目に入った。 濃い紫色の皮。 隣にはピーマンと豚こま肉。 味噌炒めにしたらおいしそうだと思った。 でも、悠斗は茄子の食感があまり好きではなかった。 前の部屋で茄子を買う時、私はいつも少し迷っていた。 自分は食べたい。 でも悠斗はあまり進まない。 だったら別の野菜にしよう。 そうやって何度も棚へ戻した。 今日、私は茄子をかごに入れた。 ピーマンも入れる。 豚こま肉も。 それから豆腐と、明日の朝のヨーグルト。 かごの中を見て、少し笑った。 全部、私が食べたいものだった。◇◇◇◇ 部屋に帰ると、いつものように「ただいま」と言った。 薄い青のカーテン。 水色の花瓶。 少し元気をなくした花。 クラゲ。 丸いテーブル。 二脚の椅子。 私は買い物袋をキッチンへ運び、茄子を洗った。 包丁を入れると、白い実が現れる。 輪切りにするか、乱切りにするか迷って、今日は乱切りにした。 料理本には載っていない。 スマホで少し調べようかと思ったけれど、やめた。 多少失敗してもいい。 味噌とみりんと醤油と砂糖。 たぶん、何とかなる。 フライパンに油を引く。 茄子を入れると、じゅっと音がした。 その音が、思っていたより心地よかった。 料理はまだ得意で
翌日の昼休み、私は森下さんに夕飯の写真を見せた。 青みのある深皿に入れたかぼちゃの煮物。 少し煮崩れて、形はきれいとは言えない。 でも、器との色合いは悪くなかった。 森下さんは画面を見るなり、目を輝かせた。「すごくいいです」「本当?」「はい。かぼちゃが少し崩れてるところも、ちゃんとおいしそうです」「そこ褒めてくれるんだ」「生活感です」 森下さんは真面目な顔で言った。「器、もう藤崎さんの家の子になってますね」「家の子」「はい。展示会場にいた時より、たぶん馴染んでます」 その言葉に、私は少し笑った。 器が家の子になる。 森下さんらしい言い方だけれど、何となく分かる気がした。 買ったばかりの時は、まだよそから来たものだった。 でもヨーグルトを入れて、トマトを入れて、かぼちゃを入れて。 少しずつ、私の生活に馴染んできている。「作家さんにも、感想を話せたんだ」「え、直接ですか?」「うん。朝倉さんが、よければって」 森下さんの表情がさらに明るくなる。「すごいです!」「すごい?」「藤崎さん、自分の言葉をちゃんと外に出してます」 そう言われて、少し照れた。「緊張したけどね」「でも、言えたんですよね」「うん」「それ、すごいです」 森下さんは力強く頷いた。 私は画面の写真を見つめた。 普通のヨーグルトの話。 トマトのマリネの話。 かぼちゃの煮物の話。 そんな小さなことを人に話して、それを喜んでもらえるとは思っていなかった。 でも、話してよかった。 そう思えた。◇◇◇◇ 午後の仕事中、何度か朝倉さんの言葉を思い出した。
書店を出ると、夕方の空は少しだけ藍色に近づいていた。 昼間の明るさはまだ残っているのに、店先の灯りがもう目に入る。 掲示板には、さっきまで見ていた展示のチラシが貼られている。『小さな器と暮らしの写真展』 その文字をもう一度見て、私はバッグを少し持ち直した。 中に器は入っていない。 買った器は、もう私の部屋にある。 食器棚の白い器の隣で、次に使われるのを待っている。 でも今日は、別のものを持ち帰っている気がした。 作家さんの言葉。 朝倉さんの言葉。 普通の日の話を、また聞かせてください。 その一言が、胸の中で何度も静かに響いていた。 普通の日。 特別ではない日。 ヨーグルトを食べる朝。 少し薄い味噌汁を作る夜。 花瓶の水を替える時間。 洗濯物を畳む途中で、つい本を開いてしまう午後。 そういうものを、話していいと言われた。 むしろ、聞きたいと言われた。 それが、思っていた以上に嬉しかった。◇◇◇◇ 帰り道、私はスーパーに寄った。 今夜は何を作ろう。 展示に行く前から決めていたわけではない。 でも朝倉さんに、普通の日の話をまた聞かせてくださいと言われたら、なんとなく普通の夕飯をちゃんと作りたくなった。 特別な料理ではなくていい。 誰かに見せるためでもない。 私が食べるための夕飯。 野菜売り場で、かぼちゃと小松菜を見る。 トマトもある。 卵もまだ家にあったはずだ。 私は少し迷って、かぼちゃを手に取った。 それから、豆腐と小松菜もかごに入れる。 かぼちゃの煮物。 小松菜と豆腐の味噌汁。 あとは、卵焼き。 いつものようなメニュー。 でも、今日は新しい器に何を
その日から私は少しだけ悠斗のスマホが気になるようになった。 別に見るつもりはない。 そんなことしたくないし、したら終わりだと思う。 でも。 通知が鳴るたび、無意識に視線が向いてしまう。 悠斗が笑うたび、胸の奥がざわつく。 自分でも嫌だった。 こんなの重い彼女みたいじゃない。
私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』 送信者は、『秋山 美咲』。 知らない名前だった。 でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。 私のスマホだ。 私はゆっくり画面を開く。 どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。